書跡名品の旅

臨書の記録と創作の備忘録

#008【昇仙太子碑】はじめまして、ミステリアス則天文字


則天武后
昇仙太子碑(しょうせんたいしのひ)
聖暦2年(699年)河南省偃師県

唐時代の人は、王羲之の書は大へん尊重したが、自己の性情に従った表現をやっているといっていいだろう。
則天武后は、諱は曌(照の則天文字)、并州分水(山西省)の人で、太宗の後宮に入ったが、太宗の歿後、尼となっていた。高宗に見出されて、再び後宮の人となり、その翌年(永徽6年.655)には高宗の王皇后を廃せしめ、自分が皇后になった。皇后になるためにいろいろの計略を用いたことが伝えられる。そうしたことからみても、武后は尋常平凡の女性でなかった。いかにも男まさりの気象のはげしい機略縦横の人であったらしい。後高宗が弘道元年(683)56歳で歿した。高宗の晩年は病気勝ちであったので武后が国政を左右したが、高宗歿後(時に武后60歳)は、事実上の独裁者として権力をほしいままにしたのである。神龍元年(705)武后が82歳で歿するまで20年間は全く武后の天下であった。その間載初元年(689)には、国号を改めて周と称し、自ら皇帝の位について聖神皇帝といった。女性の身で天下を左右したのは、中国史上まれにみるところであり、20年間大した内乱(李敬業の挙兵があったが、直に平定した)もなく抑えきった政治的手腕に見るべきものがあった。それには、狄仁傑の如き名臣をうやまって国老と呼び、その推挙した人間を任用するのに躊躇しなかったというから、人心収攬の妙をえていたと思われる。

昇仙太子碑は、現在偃師県の東南緱山上の仙君廟にある。武后が、聖暦2年2月に嵩山と緱山に行幸し、6月にこの碑を立てた。昇仙太子は、周の霊王の太子の王子晉(字は子喬と碑文に書いてある)のことで、仙人の一人といわれ列仙伝中の人だ。緱山に王子晉廟があったが、荒廃していたのを修復せしめ、昇仙太子廟と改称したのである。武后自身が周王室の後裔に任じおり、且つ平素寵愛おかなかった張易之、昌宗の兄弟があり、昌宗が子晉の後身だなどというものがあったので、この碑を製し書いたのだというのである。

昇仙太子碑の6字の額は、飛白書である。この飛白書には鳥のとびあがるさまを象徴した鳥形を配して、仙人の碑にふさわしい装飾的な、きわめて珍しいものだ。本文は33行、各行66字の草書で、実に2000字の豊碑である。碑文を草書で書いたのはこの碑が始めての試みであり、独草体のその書は、肉太にゆったりとしていて、少しも窮屈なところがない。その草法は、ぬらりとやや側筆風なところもあり、あるいは章草を交えた筆も見られ、また額文字ほどではないが、装飾風にあしらったりしていて興味ふかいものである。その中に、どこまでも武后自身の面魂が躍動しているといえよう。時に武后76歳の高齢でありながら、老人らしい萎縮性が見られない。あくまでも精力的な書だ。また碑中に武后の新字があるのは注目に値する。
首行と末行の楷書は薛稷(せっしょく)の書である。碑陰に薛曜・薛稷・鐘招京の書がある。
(二元社『書跡名品叢刊 唐 則天武后 昇仙太子碑』あと書き:松井如流より引用、一部中略)
臨書↓
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創作↓(則天文字は上段、地・日・月)
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額字↓
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まとめ
・額の飛白はかわいい🐤んだけど、一体何でどうやって書いているのかわからず、今回はパス(ハケだとしても目の穴は…?)
・大謎、則天文字
・謎ゆすりとか、装飾的なところが時々思い出したように出てくる。
・短鋒で書いてみた。結構ゴリゴリで筆圧のかけ方(筆の上下運動)が難しい。やや側筆か?
・筆致強め、生命力強め、ねばり強め。3つよ。顔真卿くらいの圧ある。
・私はのびのびしているようで計算、頑固そうでスキがなく、白黒ハッキリつけたいタイプの書って感じた。
・集字かな?って位、太細・大小・行草が入り乱れてる。ダイナミック(雑?筆が荒れてる?)なところもある。
・左右への動きが軽快でリズムよく、倪元璐のような筆のかえるような動きがなくもない。
・正直、北魏の楷書の箸休めとしてはお腹いっぱい…次も頑張ろう。