書跡名品の旅

臨書の記録と創作の備忘録

#007【龍門二十品(上)】

北魏
龍門二十品(りゅうもんにじゅっぴん)

河南省の龍門にある石窟に造像記が刻られたのは、太和18年(494)からで、それが清朝末近くに、北碑がもてはやされるようになると、この中から良いものを選んで、四品、十品、二十品…とされた。ここではまず以下の十品を学書する。北人の荒削りの筆づかいやノミの跡だけを見ないで、その裏面に潜む南方新文化へのあこがれも汲みとってもらいたい。(二元社『書跡名品叢刊 北魏 龍門二十品(上)』あと書き:伏見冲敬より引用、一部中略)

①牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)
②一弗造像記(いちふつぞうぞうき)
③始平公造像記(しへいこう ぞうぞうき)
④北海王元詳造像記(ほっかいおうげんしょうぞうぞうき)
⑤解伯達造像記(かいはくたつぞうぞうき)
⑥魏霊蔵薛法紹造像記(ぎれいぞうせっぽうしょうぞうぞうき)
⑦北海王國太妃高爲孫保造像記(ほっかいおうこくたいひこういそんほうぞうぞうき)
⑧楊大眼造像記(ようだいがんぞうぞうき)
⑨比丘道匠造像記(びくどうしょうぞうぞうき)
⑩鄭長猷造像記(ていちょうゆうぞうぞうき)


①牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)
 太和9年(495)11月
臨書↓
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 龍門造像中、最も早期のもので、丘穆陵亮の夫人尉遅(うっち)氏が、死んだ子の牛橛のために弥勒像を造った記である。造像記のなかには、かなり粗雑なものがあるが、これは品格が高く、情趣にも富み、龍門書中上乗なものである。肩の転折のとき、大きく筆をゆすり、波法のはね出しを長々と引く書法は、これよりかなり前からあるが、理智的な結構法と相俟って、大字書法としての完成を見せた作例として書道史上重要な存在である。尉遅(うっち)氏は顕官の夫人であるから、きっと書に優れた人に依頼して書いてもらったのであろう。
創作↓
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ミニまとめ
・太→細→太の横線(ねじってる?)
・独特の右肩
・点画を繋げけて書くところがある
・やっぱりかっこいい!

②一弗造像記(いちふつぞうぞうき)
 太和20年(496)
臨書↓
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 夫の張元祖の供養のために、妻の一弗氏が造ったもの。これは僅か30字の小品であるが、その書が優れているために二十品の中に数えられている。
創作↓
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ミニまとめ
・長鋒めの筆先の処理(側筆ぎみな部分やねじ込み方)が◎
・字形は少し歪?
・筆速は感じないが、筆致の強さがある
・左利きの人の書のような味

③始平公造像記(しへいこう ぞうぞうき)
 太和22年(498)9月14日
臨書↓
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 比丘の慧成というものが、亡父の使持節・光祿大夫・洛州刺史・始平公のために像を造り供養したもので、慧成は法成・慧感・慧榮などとともに龍門石窟開鑿に従った僧であるが、始平公が何人であるかはわからない。
 この記の碁盤目に陽文というのは珍しく、北斎の馬天祥造像記とこれと、僅かに2例しかない。(書品93号)また、撰書者の名が書かれているのも珍しい。楊守敬は平碑記に、これと孫秋生・楊大眼・魏霊蔵・高樹の5種を龍門の代表として挙げ、〈始平公は寛博を以て勝る〉といっている。
創作↓
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ミニまとめ
・肉太。特に口など縦線を背勢ぎみに太く締める
・引っ掛けるような入筆があり、左に張り出す結構
・重心を高くし、頭を小さくつぶし、右払いを力強くする
・曲直、太細が上手く混じり合い、線に粘りもある(顔真卿のメリハリに近く男性的)なんとなく、色んな書のルーツになっていそうな書
・とにかく磨滅が激しく字調べが大変。参考古典は魏霊蔵、比丘道匠あたり

④北海王元詳造像記(ほっかいおうげんしょうぞうぞうき)
 太和22年(498)9月
臨書↓
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 北海王の元詳が、その母高太妃の立願した弥勒像を完成し、母子に仏の加護のあらんことを祈ったもの。
 この字は肩のところの転折なども、牛橛のように角ばらずに、ふわっと浮かして落し、丸みを持たせている。起筆はうんと高いところから勢をつけて打ち込み、一旦落した筆はゆっくり引廻しているようである。ふところの広い、寒険の気のないこの造像記はすばらしい。
創作↓
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ミニまとめ
・細身で切れ味◎、なのに柔らかくやさしい
・転折は円筆のようで、縦線は揺らぎ、横線は石室の影響か微振動が現れているかのようで、それが独特のゆったりした波勢のリズムを生んでいる。右下がりの字もある。
・右払いは伸びやかで、しんにょうは長すぎて笑える
・鄭道昭に近い?!丁寧な書


⑤解伯達造像記(かいはくたつぞうぞうき)
 太和間(495-499)
臨書↓
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 これも70字たらずの小品であるが、書はなかなかすぐれていて、廣藝舟雙楫では精品の上に列している。特に左右に力を張り出した書き方は、一種の風致をかもしている。末に「太和年造」と記してあるが、造像は太和19年から始められ、太和は23年まであるから、その5年間のものであろう。
創作↓
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ミニまとめ
・ぱっと見は牛橛に近いと思ったが、そこまで整然としていない
・筆勢があり、軽やかで字が踊っているかのような結構
・意外と創作はきまる

⑥魏霊蔵薛法紹造像記(ぎれいぞうせっぽうしょうぞうぞうき)
 無年月
臨書↓
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 鉅鹿の魏霊蔵と河東の薛法紹の造像で、鉅鹿・河東はいわゆる「望」で、本貫・出身地ではなく、門族の興った郡名である。2人の名は史書に見えないはずで、縣の功曹というのは、至って低い地方官である。薛の官位は書いてないが、恐らく同じ程度の人であろう。陸渾縣は龍門から伊水を50㎞ばかり溯ったところ、今の嵩縣の少し下流である。
その書は龍門の代表作の一つ、四品の中に数えられているが、楊守敬も代表として挙げた5つの中に入れ、〈靈和を以って勝る-平碑記〉といっている。横画の最後の筆を隷書のように上に抜いているところがしばしばあるが、これは北涼書と血縁を示すもので、隷書とは直接関係のないことを改めて強調しておきたい。(支那の書道49頁参照)
創作↓
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ミニまとめ
・終筆を力強く跳ね上げる(外ハネ)
・横線は終筆の処理含め多彩で表情豊か
・粘りがある一方、軽やかさもあり、後傾の字も見られる

⑦北海王國太妃高爲孫保造像記(ほっかいおうこくたいひこういそんほうぞうぞうき)
 無年月
臨書↓
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 北海王國の太妃の高氏が夭折した孫の保というもののために造ったもので、元詳の太妃も高氏であるがこれは母の高椒房であろう。年月はないが高氏は正始元年(504)に刑死しているから、それ以前のものであることは確かである。
創作↓
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ミニまとめ
・ごく小品
・へんよりつくりが落ちる面白い造形
・筆先が効いた円筆の用筆でゆったりとした構えになっている

⑧楊大眼造像記(ようだいがんぞうぞうき)
 無年月
臨書↓
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 楊大眼は泣く子も黙るとうたわれた魏の勇将で、魏書・北史・南齊書にみな伝がある。大眼といっても眼が大きいわけではない。疾駆するときは馬よりも早かったという。この造像は年月はないが、499年に崩じた孝文帝のための造像であるから、景明初と見て間違いないであろう。
廣藝舟雙楫ではこの書を峻健豊偉の首に推し〈少年の偏将のごとく、気、雄に、力、健なり〉と激賞しているが、楊守敬は〈楊大眼はややおよばざるも、亦悪しからずー平碑記〉といっている。石の質の悪いところに当たったせいか、欠損が多いのが惜しまれる。
創作↓
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ミニまとめ
・切れ味は半端なく、やっぱりかっこいい、が上品さがある
・転折は牛橛?

⑨比丘道匠造像記(びくどうしょうぞうぞうき)
 無年月
臨書↓
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年月はないが、汪鋆は〈その書勢を翫するに、當に太和の前後にあるべしー十二硯齋金石過眼録〉といっている。
創作↓
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ミニまとめ
・太細のメリハリがあり、筆先・腰を自在に使っている感じ
・細かいところはこちょこちょ書いてる感じ
・タッチが軽いところがあり、行書の筆意があるようなないような
・宀や六の点など、打ち込みが強すぎ
・創作の幅が自分的には1番あった古典で、行書の筆意を入れるとさらにかっこよくなった

⑩鄭長猷造像記(ていちょうゆうぞうぞうき)
 無年月
臨書↓
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・鄭長猷の伝は魏書劉芳伝に、父の演とともに附載されている。長猷は雲陽伯を襲い、南陽太守、護軍長史等の官を歴任した。これは長猷が父演、母皇甫氏、子士龍のために、また鄭南陽の妾、陳王女(玉女?)が母のために、それぞれ一区を造ったことを記している。
その書は二十品中特に優れたものではないが、西北様式の旧派の名残を示すもので、珍貴な資料といえる。(書品19号・55頁)器用にこなしてあないだけに、かえって書法の秘密を伝えてくれる。はじめの前の字を半ば削り残し、次に2字脱しているが、ここには「南陽」と入るのであろう。
創作↓
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ミニまとめ
・几帳面に一点一画ゆっくり書いている。水平の二頭身。デシュタルト崩壊寸前の字もある
・縦線の入筆角度がエグく、横線は側筆ぎみ?線は切り立っている。全体感は太めのマッキーで字を書き始めてしまったから、線と線がくっつかないように気をつけて書いたような割と繊細な結構
・このまま作品になるくらいおもしろくてかわいいクセ強の古典

まとめ
一口に造像記と言っても、実はその数は膨大で、今回はその中のほんの一端を学書にしたに過ぎない。まだ(下)があるし…線の多彩さや力強さ、造形の面白さは、楷書の創作にきっと役立つ!
始平公の字調べには心が折れかけたが、二元社『北魏楷書字典』(梅原清山編)が大活躍した!!
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